【裏第五話 皇女は魔女っ子系】






がぶり。

何とも痛そうな音が響いた後、スタジオ内は記録的な寒波に襲われた。隙間風が強風に変わり、もうすぐ春だというのに気温は冬へトンボ帰り。数人のスタッフがおろしたての春服に後悔し、寒がりのスタッフの中には自分の毛足の長い服に感謝するものもいたとかいないとか。とにもかくにもスタジオ内の空気はカチンコチンに固まった。

「す、スザク…君‥?」

近くにいたセシルが何とか凍る体を奮い立たせて(まだ顔色は青かったが)スザクに話しかける。話しかけられたスザク、もとよりこの空気を作った張本人は微動だにせずにその場に立ち尽くしていた。笑顔で。

にこにこにこ。

そんな擬音が聞こえてくるかも知れないぐらい、爽やかな好青年の笑顔。しかし状況が状況なだけに皆が脳内でその様子を異常と判断し、何故こうなっているのか必死に処理しようとしていた。結局のところ成功した者はいない気がする、が兎にも角にもこれは異常なのだ。幾ら枢木スザクが近年稀に見るほど厚顔で強い心臓の持ち主であるとはいえ。この状況では…。

猫に手を噛まれている状況では…。

痛くないはずがない。現に血がだらだらと止めどもなく流れ出ている。猫は完璧に毛を逆立て怒り心頭、離れる気配なし。「ウゥー!!!」という声がやたら静かなスタジオ内で反響する。しかし尚も枢木スザクは笑顔を崩さない。それも噛まれる前と同じ笑顔で微動だにしない。幾ら鈍くても人間というもの、噛まれた瞬間ぐらいは動揺が走るはずだったがそれも無かった。恐ろしいとかの問題ではない。この状況は滅茶苦茶怖い。もはや恐怖だ。

鉄の仮面で『枢木スザク』の笑顔を保ち続ける枢木スザクに対して監督は「相変わらず凄い精神力だ。」と感嘆し脚本家は「予定より危険な事やらせても大丈夫かな。」といそいそとメモに走り、ロイドは体を折り曲げてしゃがみ込む。その肩が小刻みに揺れている事から必死で笑いを堪えている事は疑いようもない。(確実に後で枢木スザクにボコられる気がするのでその勇者な態度にスタッフ内から拍手が送られた)そんな一部特異な者を除いて殆どの者は固まっていた。そしてこの場面で最も重要な人物であるもう一人の人物は。


「やりましたね!スザクさん!!!」


目をキラキラ輝かせてスザクにエールを送っていた。
そんな彼女の肩書きは神聖ブリタニア帝国第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニア。

まさしく皇女のような不動の精神とズレにずれた感性で彼女は場の空気を更に急降下させた。




事の始まりは猫である。『コードギアス』では猫すら重要な登場人物のひとりであり、大切なスタッフである。そんな猫にはある三つの条件が課せられていた。黒猫である事、オスである事、そして枢木スザクを威嚇する事。勿論猫はちゃんとしたプロダクションから借りるテレビの中では立派な役者として活躍する頭の良い子達である。とはいっても猫に演技指導する事は犬より遙かに難しい。枢木スザクだけを威嚇して後のみんなには懐くなんて高等な演技が出来るはずもない。というわけで枢木スザクにだけ、猫が嫌いな臭いをつけて威嚇させるという手法がとられたのだ。これにより問題は何もないかのように見えた。が、予想外の事態は起こった。

猫が脅える。

それはもう「なんでじゃい!」とプロダクションのスタッフさんが、こちらが見ていて申し訳ないほどに半泣きになって頭を抱えたくらい悉く猫たちは枢木スザクの姿を見て脅えた。道具いらずですね、と和やかに会話できるムードすらない。脅えれば毛を逆立てて威嚇するのでは、と思うかも知れないがそうではなかった。脅えるには脅えるのだが、だが!

逃げるのだ。

東奔西走。三百六計逃げるにしかず。脱兎の如く走り出し、スタジオの闇に消えていく猫達。威嚇する暇もない。逃げなくても身を縮こまらせる。動物は本能的に力関係を把握すると言うが、枢木スザクの力は猫達のヒエラルキーの中でも頂点も頂点。むしろ高すぎて見えません、というぐらい高かったらしい。ボスには素直に従います、どころの話ではない。未知の生き物レベルに位置づけられた枢木スザクの前で猫達は悉く敗走した。この場合どちらを責める事もできないのが痛々しい。(逃げた猫を軟弱者と罵るのは流石に可哀想すぎるしかといって枢木スザクに責任を問うのも怖い)
そして急遽猫集めが開始された。一時期十は超すケージと猫で埋め尽くされスタジオ内は大変臭くなった。ついでに嫌いな臭いを盛大に使用した為、鳴き声ももの凄くうるさかった。そんなこんなで洗いざらい調べてみたものの見つからず、スタッフ一同憔悴しきっていたところに出演者から突如救いの手が差し伸べられた。

「私の猫でよければ。」

差し出された黒いオス猫。飼い主はその猫を抱え、目をキラキラと輝かせていた。




「これで撮影が進みますよ!」

尚も放す気配のない猫を抱え、飼い主であるユフィは一人ハイテンションだった。猫をささえていなければ、その広いスカートをくるくると回転させていたかもしれない。一人だけ別世界である。しかしそんな彼女に「早く猫を叱りなさい。」と言ってくれる人が誰もいない。(皆その役を心の中で人に押し付け合っている。)

「本当に一時はどうなるかと思いました!」

その言葉はスタッフ一同の心の叫びだったが今の状況があまりにも『どうにかなっている』ので賛同の意を示す者はいない。その状況についに堪えきれずにロイドが腹を抱えて笑い出した。抱腹絶倒で語尾が段々と消えていく。(この時スタッフは次の撮影にロイドが来るか本気で心配になった。)その中でやはり枢木スザクはその穏やかな笑顔を崩さなかった。

「そうだね。撮影がちゃんと進むことを、この子に感謝しなければ。」

「はい!!!」

元気いっぱいで答える飼い主。しかし枢木スザクの声はそんな元気な答えが相応しくないほど低い。案の定猫の尻尾がぶわっ!と膨らんだ。一体どんな人生経験を積んだらそんな声が出せるのか聞いてみたい程人外な恐怖を誘う声と、天使のような微笑みで枢木スザクは猫を見つめた。

「これからよろしくね。えっとこの子の名前は…」

表面上慈しむような視線は威嚇する猫には届いたのか。
ユフィは牙をむく自分の猫に愛おしげに笑いかけ、顔を上げてスザクの質問に答えた。


「黒井ブチ太郎です。」


その後スタッフ内では役名の『アーサー』で通る黒猫の、これが初の勇姿であった。









end