【ただひとつ、求めるのは】
(…もの凄く見覚えはあるけど、俺の目の前に広がっていい光景じゃないよなこれは。)
目の前に鬱そうと生い茂る木々。森と呼ぶには少なく、林と呼ぶにはしっかりと樹齢を重ねた木々。日が傾き欠け午後の強い日差しが木の葉のひさしに和らげられ、キラキラと輝きその場全体を明るい光で満たしている。そんな中でルルーシュはひとり、本当にひとり立ち尽くしいた。鳥や虫の動く音以外何も聞こえない。何故こうなったのか、何故ここにいるのか、どれだけ考えても結論はでなかったが今自分がたった一つ断言できることがある。それは、ここが自分が過去遊んだ場所だと言うこと。枢木神社本邸の雑木林の中だと言うことだった。
(…なんだろう。やっぱり感覚で分かるものなんだな、こういうのって。)
その場所を自分が知っている場所と断定できる要素などそうはない。何せ木しか見えないのだ。けれど微かに露出した肌に触れる気温や空気の湿り具合が、ここが日本で季節は夏だと告げている。燦々と輝く太陽は思わず目を擦ってしまうぐらいに強い。そして木の幹の太さだとか色だとかが、種類なんて小難しいことは考えなくともかつて見た場所だと告げている。人の中にすり込まれた想い出と、繰り返し見た光景に対する感覚的な先見は中々役に立つものだとルルーシュはひとりごちた。というかそれ以外にできることもなさそうだった。右も左も分からない、というわけではないが状況が自分の足を動かすことを許してはくれない。
(だがずっとここに突っ立っているわけにもいかなくて。・・・くそっ、一体ここは、いつだ!?)
あの戦争でこの場所は焼けてしまった。ということは少なくとも自分がいた場所より八年は前ということになる。それこそが彼が本来いるべき場所にいないという全ての結論にもなっていた。失われた風景に立っていると言うことは、自分は過去に来ているということなのだ。そして八年は前と言うことはここはまだ旧日本の名を冠している。ブリタニアとは友好的と言えず、敵対する関係に近い。自分の今の恰好を見渡せば黒いコートに黒いシャツに黒いズボン、ブーツまで黒におまけに眼帯までしているという始末。眼帯の怪しさを差し引いても夏の最中にこうまで見事に全身真っ黒では妖しいです、と宣伝しているようなものだ。そして自分の肌の色は病的な白さとはいかない。健康的な、ブリタニア人の肌の色。顔立ちでも見間違ってくれる要因などなく、決定的に、この紫の瞳が異国人だと知らしめる。それぐらいこの瞳の色は珍しかった。そしてそれは眼帯をとっても同じだった。だからこそ身動きが取れなかった。自分が一体どういった立場にいる人間かぐらいは、想像できた。思い出すのは幾度と受けた暴行の数々。体は、正直だった。
がさり。
不意に茂みが動く音がして、ルルーシュは勢いよく振り返った。長く極度の緊張状態に身を置き生きてきたせいか音や微かな気配には過剰なぐらいに敏感になっていた。中でも音は、鈍ってきた視覚の代わりとばかりに発達していた。そんな些細なことで愛しい妹の事が思い出されて苦笑してしまう。とにもかくにも敏感な聴覚は、これが人が葉を踏む音だと認識していた。そしてまた反射的に傍にあった大木に寄りかかるようにして身を隠した。殆ど本能のようなものだった。思わず押さえた左目にコートの中に忍び入った右手。本当に正直な体に、自嘲すら漏れた。身をかがめるように足を曲げて、いつでも飛び出せる体勢を整えて待つこと数秒。断続的に続いた足音はやがて目視できるまでに近付いた。そしてそこで、ルルーシュは思わず息が漏れるような光景を見た。ここが戦場であればその一息で死を招くかもしれないのに、動揺は誤魔化せなかった。はっ、と喉がひりついたような声は、幸運な事に動揺を与えた人物に気付かれる事は無かった。
(あぁ、これは、そうか。『ここ』なんだな。)
妙に納得して右手が弛緩する。掴んでいたものから指を外し、だらりと力無く腕を脇に添えた。警戒を解くことに迷いは無かった。警戒を解けることに喜びを感じた。僅かに木の幹の向こうに見える事物は、きょろきょろと辺りを見渡している。探るような視線に、今度は笑みがこぼれた。それは優しく、意識せずとも出たかつての笑顔。かけがえがないと称された懐かしい笑顔だった。相変わらず敏感で、野生動物みたいな奴だと笑ってしまう。ルルーシュが音もなく作った微笑みに、その人物は何かを勘付いたようにじろりと此方を見た。その左手には道場返りか竹刀が握られていて、思わず変な汗を掻いてしまう。これから起こりうる事が予想できてしまった。そしてその予想を現実にしないために、ルルーシュは身を隠すのを止めてその人物の前に立った。解かれるどころか強くなった警戒すら今は心地よいと、一体誰に言えよう。手に何も持ってないことを示すように両手を掲げて、ルルーシュは優しく微笑んだ。
「誰だ、お前。」
激しく静かな追求の声。まだ高く幼い声は、自分が大きくなったからこそ気づける緊張と負けはしないと自分に言い聞かせるような必死さを孕んでいた。あの頃なら多分、向けられる負の感情にしか気づけなかっただろう。けれど今は違う。彼も、やっぱり可愛い一人の子供だったのだ。身長差による距離感が生まれ、それがそのまま現実の意識を遠ざける。懐かしいと言葉に出すことも躊躇われるほど胸を焦がす感覚に、ルルーシュは目の奥が熱くなるのを感じた。スザク、と名を呼べばその子供は拾ってきた山猫のように毛を逆立てた。否、そんな風に見えるほど目に見えて緑の瞳に険しい色を浮かべた。構えをとって右手が腰に当てた竹刀に伸びるのを見て、本気で焦ってしまう。思わず「怪しいものじゃない!」と声を張り上げてしまった。どの面下げてこの恰好で怪しくないと、言えるのか。怪しくないと言う者ほど怪しいというのはなるほど真理だ、とルルーシュはひとり納得してしまう。一方ルルーシュの言葉にまるで納得していないスザクはじり、と右足で地を踏みしめた。あの頃はまるで目で追えなかったが今でも追えるか怪しい。というか体力に比べ視覚や聴覚なんてものはそうそう発達するものじゃない。年齢に従って身に付く『見方』はあるかもしれないが動体視力まで発達した自信はない。つまりはまるで動きを追える自信もなかったので情けなく竹刀で叩かれないうちに降参したのだ。こんなところで気絶して問答もできないうちに大人達の前に連行されるなんて、それこそ冗談じゃない。そんなルルーシュの内心なんて露知らず、スザクはじっとルルーシュに対して警戒を向けていた。けれどその警戒がふっと緩められる。なんだ?と問う前にスザクの目を見たことでルルーシュは計らずその意を知った。戸惑いに見開かれた瞳や何か言いたげに薄く開かれた口に、ルルーシュは自分を知っているスザクを見た。問われる前に答えを与えてやるべきかな、と思って、けれど止めた。言ったところで信憑性に欠けるし、何より嘘くさいと思った。そしてそれ以上に、別に彼に認識して貰えなくてもそれでいいと思ったのだ。
「お前の知っている奴に、似ているか?」
だからそう問いかけてやった。我ながら意地悪な質問でスザクは見る見るうちに肩を強張らせた。少し足下が後退さえしている。多分本人は無自覚だろうが。やっぱり大人と子供ならこうやって言い負かせるもんなんだな、とあの頃退くと言うことをしらないように見えた強情な子供を想う。さっきから新鮮なことばかりだった。知っていたはずだったのに、新鮮だった。知っていることと分かっていることは別なんだな、とその瞬間はっきりと分かった。それすら知っているだけで、体のうちで生み出された感覚によって初めて伴った現実感に、ルルーシュは熱さを思い出した。今は夏で、やっぱりこの恰好で往来するには気温が高すぎた。その時初めてルルーシュはこの場所に、落とされたのだ。まだもじもじと躊躇うように警戒を続けるスザク。ルルーシュは身長差を埋めるように膝を折って、真っ直ぐに彼の目を見た。びくり、と一瞬走った怯えには見ない振りをしてやった。
「初めまして。」
その挨拶に背中がむず痒くなったのは内緒にして貰いたい。何というか、不思議な感覚だ。明らかに顔見知りの奴に初めての挨拶をするなんて。そんなこと記憶喪失という貴重な体験の前ぐらいだと思っていたのだが、それ以上に貴重な体験をしてしまった。片方だけ残った紫の瞳に、ルルーシュは持てる全ての感情を込めて笑った。これでスザクの緊張が解けるはずもないことぐらい、分かっていたけれど。でもどうだっていい。だってまた笑えるのだ。一番贈りたかった笑顔を。自分でも特別だと認識している想いを。何一つ飾ることなく誤魔化すこともなく、ただ真っ直ぐに伝えられるのだ。それに勝る幸せなんて、あるはずもない。あるなんて思いたくないほど今幸せに満たされていた。あぁ、これが俺が欲しかった
「初めまして、スザク。」
たったひとつの未来なんだな、と思った。
end