【アンチ・ロマンティック】





「アーサー、か。」

物音に窓を見遣ると、黒く小さな影が見えた。開け放たれた窓の隙間からするりと入り込んだのは、自分も嘗てよく知っていた一匹の黒猫。名前を呼ぶと気付いたらしく、アーサーは仄かな足音と共にソファに腰掛けるルルーシュの元へやって来た。気まぐれな猫が人の呼びかけに応えるのは珍しい。しかしアーサーは何故かルルーシュのところへはよくやってきた。

「おいで。」

気まぐれに呼んでみるとアーサーはその金色の瞳でじっと自分を凝視した。そこで初めて順調だった歩みが止まり、しばしの静寂がやってくる。ルルーシュはその猫らしい有様にふっと笑みがこぼれた。
猫が好きではない、どちらかというと犬派の自分が如何なる理由から、この猫に好かれているのか?明晰な頭脳をもってしても解けるはずがない謎を抱えていた事もあった。しかしそれも過去の話で、今になってもまだこの猫が自分の元へと近付いてくると、ルルーシュは思ってもみなかった。生徒会の面々から聞かされたアーサーの、武勇伝と彼女らが名付けた話。猫が人間の様に深く物事を考えて生きているわけではない、とルルーシュは知っている。これほど多くの事に頭を悩ませ、時に無駄なほど気遣って生きる動物と言えば人間ぐらいのものだ。ただその人間から薄れてしまった本能の様な原始的な感覚は、時に想像以上のものを発揮する。故に最早自分が好かれることはない、とルルーシュは思っていた。それに寂しさを感じたりしなかったのは自分がスザク程猫が好きではない、という理由からだったのだが。

「俺も意外と寂しがり屋だな。」

過去好かれていたもの、それが猫であれ、に嫌われるのは誰でも堪えるものらしい。こうやって未だに自分の傍に寄ってくる猫に心の何処かで安心している自分がいることを知り、ルルーシュは知らず泣き笑いのような表情になった。
独り言に反応したアーサーが動き出す。軽やかな跳躍でソファへと上がると、そのしなやかな体躯を逸らしてごろごろと喉を鳴らす。ルルーシュは自分の存在をアピールしてくる猫の喉を白く細い指で撫でてやった。日頃ナナリーに触れる為に優しく動くようになっていた指は動物であれ心地よいらしく、アーサーは嬉しそうに指を舐めてきた。無防備な姿を晒すということはそれだけで自分が安全である、と認識されている証拠だ。ごろりと引っ繰り返って腹を見せながら自分の手にじゃれついて来るアーサーを見ながら、何故未だに警戒されないのかという謎を抱える事になってしまった。

「相変わらず懐いてるんだね。」

一人と一匹しかいない空間に突如割って入った声にルルーシュは固まった。しかし顔を上げるより先に全身に走った緊張を振り解くまでの、ほんの刹那を作った張本人は悠々と窓から入りルルーシュへと近付いてくる。それを注意する前にまず、ルルーシュは不自然でない表情を作ることに尽力しなければならなくなった。

「驚かすなよ、スザク…。」
「ん?そんなに驚くとは思わなくてさ。」
「入り口と反対方向から声が掛かれば誰でも驚く。いつからそこにいた?」
「うーん、君が独り言で寂しがり屋って言ってる時から、かな。」

大分前のことではないか、とルルーシュは内心舌打ちした。けれどその動揺は顔に全くださないだけの演技は出来る。ルルーシュは笑みを称え自分の傍に近付いてくるスザクを無言で見つめた。そしてスザクが自分の直ぐ傍にやってくる頃にはそのぎこちない笑顔を観察するだけの余裕をどうにか作り出していた。

「楽しそうだよね。」

スザクはアーサーとは反対側の、ルルーシュの隣に腰を下ろすと膝の上でじゃれつくアーサーを見つめた。機嫌も良さげにルルーシュの上で尻尾を振っている猫に手は出さず、その様子を見守る。手が早く、常に構わずにはいられなかったスザクのそんな些細な変化を見遣り、ルルーシュはスザクの視線を追った。黒い制服の上でアーサーは構いもしないのに一匹で楽しそうにしている。

「いいなぁ、ルルーシュ。」
「本当に、お前そんなに猫が好きか?」
「うん。好きだよ。」

未だに指を噛まれてばかりのスザクが心底羨ましそうに呟いたものだから、ルルーシュはつい答えの分かり切った質問をしてしまった。そして想像通りの答えが常より寂しげな響きを伴って返ってきたことにルルーシュは後悔せずにはいられなかった。
一体何がいいのか、この気まぐれで人には絶対懐く事のない猫という動物をスザクは心底愛していた。その人に構わない高貴な姿勢に手を伸ばしてみたくなるのか、懐かないからこそ手懐けたいという欲で満たされるのか。ただそっと寄り添ってきてくれた瞬間、スザクは本当に嬉しそうに猫を見ていた。その歓喜は並ではなく、許されたと思い撫でて次の瞬間に噛まれるというお約束をスザクは忘れてしまう。自分に反抗的なこの動物の何がそんなにいいのか、ルルーシュには理解出来なかった。スザクとて自分の愛情に知らんぷりする猫を好きなようには見えない。それなのに飽きもせず構う。構っては冷たくされる。
それが自分には一生理解出来ない。嬉しそうに語るスザクの笑顔の奥の真意を、ルルーシュは知る事ができない。そして何度繰り返したところで答えが得られないと分かっていて同じ事を言ってしまう自分はスザク以上に馬鹿なのかも知れない。

「いたっ!」

スザクの悲鳴にふっとルルーシュは我に返った。ルルーシュの膝の上で固まるスザクの右手と、齧り付いたアーサー、その二つを視界に入れて自分が思いの外スザクと猫について没頭して考えていたことに気付く。うー、と唸り声を上げるアーサーは不機嫌そのものの顔で、歯を食いしばって耐えるスザクは悲しくて堪らないといった様子でルルーシュを間に挟んで戦っていた。そしてその白い歯をスザクの手の甲に食いこませて満足したアーサーは、今度は興味を無くしたのか流れ出た血も舐めずにソファを飛び降りた。尻尾を高く上げ、左右にゆらゆらと揺らし何かを求め元来た窓から出て行く。ルルーシュはその後ろ姿をただぼんやりと眺めていた。

「本当に気まぐれなやつだな…。」
「・・・そうだね。」

不機嫌な同意の声にルルーシュは漸くその声の主に意識を戻す。すると複雑そうに自分を見つめるスザクを見つけてしまった。面食らった表情をすると、スザクの額に一層深い皺が刻まれていく。何故スザクがそんなに機嫌が悪くなるのか分からずに視線を下にやると、押さえた傷跡からは赤い血が止めどなく流れ出ていた。

「また、派手に噛まれたな。」

穴の空いた手を見てルルーシュは呆然としてしまう。その傷の深さに手当をしなければ、という思いが自然と浮かんできて、視線が救急箱を求めて彷徨った。確か、棚の引き出しにあったはずだ、と思い出し腰を上げる。そんなルルーシュの手首を掴み、その動きを阻んだのは意外にも怪我をした張本人のスザクだった。その行動に非難の視線を向けるとスザクは自分の手を流れる血を舐めていた。

「お前、傷口を舐めるな!雑菌が付いてるんだから洗って消毒しろ!」
「心配性だなぁ、ルルーシュは。このぐらいの傷、舐めたってどうってことないよ。」
「俺だってその程度の雑菌がお前に勝てるとは思わないが、少しは衛生観念を養え。」

酷いと言えば酷い文句を吐き捨てるとルルーシュは再度立ち上がる為に両脚に力を込めた。けれどそれもスザクの手に阻まれる。軍人らしい無骨な掌はルルーシュの手首を捕らえて離すまい、といたい程の力が込められていた。だが舐めても出てくる血に、ルルーシュはその事を気にする余裕もない。傷の手当てをしようとする自分が阻まれなければいけない理由が分からず、ルルーシュはスザクの名を呼んだ。それは暗に放せ、という意味だったがスザクは何故か嬉しそうに笑った。

「舐めて。」

ぎこちない笑みと共に差し出された右手。ルルーシュは一瞬何を言われたのか理解出来なかった。服の上からでも感じるスザクの掌の体温より理解出来ないかも知れない。あまりに不可解なスザクの言葉と行動にルルーシュは薄い唇を半開きにしたまま声を失った。

「傷、舐めてくれれば治りそうなんだ。」

けれど、どう解釈すればいいのか迷うルルーシュをスザクは不気味な程優しい笑顔で見つめ説明を付け加える。自分の目の前に差し出された手を舐めて欲しい、それで傷の手当ての代わりになる。そう言われているとルルーシュには理解出来たがやはりまだ頭が回転しない。意味は分かっても、真意が測れない。まただ、と思った。言葉は理解出来ても、ルルーシュにはスザクが何を考えているのか分かりはしない。

「ルルーシュ、お願い。」

静止するルルーシュに痺れを切らしたのか、スザクは掴んでいた手に力を込めてルルーシュの体を引き寄せた。上質なソファの上に押し付けると、ルルーシュの赤い唇の内側へと傷口をねじ込む。お願い、と言っておきながら全く相反するその強引な行動。柔和な笑顔のまま凶暴性を見せつけるスザクの緑の瞳がルルーシュを射抜く。そしていつのまにか首に回された左手が、決定打となってルルーシュの全ての動きを封じ込めた。自分の口内で血がじんわりと溢れ出て、それが舌の上で嫌な味を伴ってくる。ルルーシュはその味に耐えきれずに反射的に舌を出した。唾液特有の粘着質な水音が二人きりの室内に響く。

「ありがとう。」

柔らかなお礼の言葉。ルルーシュはスザクを喜ばせたくてこんな事をしている訳ではない。自分が幾ら足掻いたところでスザクが離すはずもなければ、自分が逃れられる訳もないことぐらい学習しただけだ。じっと見られている事は百も承知でルルーシュは業とスザクの手や指先ばかりを見つめ、ただ一心不乱に舐める。ともすれば従順である様にも見えるその動作を、スザクが一体如何なる思いで見ているだろうかとそればかり考えながらルルーシュは傷口を舐めていた。唾液によって少しずつ血の味が薄れていく。スザクの体温が舌にじんわりと移っていく。そうすれば傷口から徐々に血の気配が薄れていった。その頃になってスザクは漸く口を開いた。唇に、瞳に、優しい微笑をのせて。

「ルルーシュ、猫みたい。」

心底嬉しそうな声音。そんな事はどうでもいいから、早く、その手を離してくれないだろうか。心の中で呟きながら、震えた指先をぎゅっと掌に握り込む。そして傷口を舌で丁寧になぞった。

もう血の味はしない。
けれどスザクの体温が放れていく気配もなく。


ルルーシュはスザクの手を舐め続けた。





end