【もがれたブドウのすすり泣き】






軋んで悲鳴をあげる体が思うままに意識を手放したスザクはまだ暗い闇の中を漂っていた。

あの時あの瞬間、倒れ込む一歩手前で聞いた言葉に目を閉じてしまった自分をなんて弱いのだろうとスザクはひとり嘆いていた。世界はまだ暗いままで、自分が完全に覚醒していないことを感じながらスザクはもう一方でそれ以上を拒否した正直な体を誉める。聞く勇気を持てなかった自分に、聞かなかったことで自分を守った自分。

ゆらゆらと漂っていると眼前が徐々に白けていった。それが上か下か横か、スザクは判別など出来なかったけれどただ眩いまでの光の方向にスザクは素直に手を伸ばしていた。それはただ指針のない世界が不安だというだけだったけれど、伸ばした指先を捕まえてくれる存在をスザクは感覚だけで感じとった。


そして明けを迎えた世界には、ルルーシュがいた。


紅に染まった生徒会室、ソファの上で寝そべるスザクの手を、彼は握っていた。そこには倒れる前にあった軽蔑と侮蔑の色など何一つなく、不安げに歪められた紫の瞳があった。突然の変化に驚いたと同時に歓喜して、次いで押し寄せた虚脱感にスザクはみるみるうちに目尻が熱くなるのを感じた。そこで初めて自分の上にのし掛かっていた不安の重さを知り、押し潰されそうになっていた事を知る。何のことはなく、突然倒れた友を心配してつきそう、そんな常のルルーシュならば当然の行動。しっかりと握られた掌の体温の掛け替えの無さにスザクは崩れそうなほど不格好な笑みを浮かべた。

「ルルーシュ…。」

目が覚めると心配そうにスザクの顔を覗き込むルルーシュがいて、もうそれだけで充分すぎた。前から弱いと言われている涙腺は簡単に緩んでゆき、熱くなった眦からこぼれ落ちた涙は絶え間なく頬を濡らした。今はその暖かさが何より救いで、手の甲で拭うことさえ忘れてしまった。そして代わりに伸びてきた白い手が涙を掬い取る。当然、それで止まるような涙ではなかった。

「おい、何で泣くんだ。何処か痛いのか?倒れた時に頭でも撃ったのか?スザク、スザク?」
「夢を見ていたんだ。長い夢を。」

ぽつりと溢した答えにルルーシュが不思議そうに首を傾げる。そんな幼い仕草を見せられる事が嬉しくて堪らない。もうどのくらいその顔を見ていないだろう。親しい人の前で綻ぶ警戒心と、その隙間から見える柔らかな表情。自分でも想像していなかったぐらい懐かしく感じて、スザクは思わず月日を指折り数えそうになった。一ヶ月と少し。それは過去の七年に比べればほんの他愛もない日数だったけれど、心に重くのしかかるほどにはスザク自身を蝕んでいた。一向に収まる気配のない涙にハンカチを取り出そうと離れたルルーシュの指をスザクは追うように掴み、そしてそっと口元に押し当てた。ルルーシュの体温は、涙よりずっと暖かかった。

「君に嫌われる夢。君が僕を嫌っていて…僕達はとても仲が悪いんだ。そんなわけないのに、みんながその通りだと言って。僕がいくら君の事を好きだと言っても誰も認めてくれないんだ。」

ルルーシュの指が涙で濡れることも構わずスザクは言葉を紡ぎ出した。一度安心して気を抜けば、もう自身の意志など関係なく唇は動いてしまう。

「でも目が覚めなくて、それどころか痛くて少しも終わりが見えなくて。長かった。夢の中で一ヶ月も過ごしてしまった。だから諦めかけてしまった。夢に決まってるのに。良かった。良かった戻って来れて。君が笑っていてくれて。君が、いつも通りの、君だ。」

壊れたように溢れ出る涙や躓きつつも賢明な話し方がまるで母親に縋り付く子供のようで自分でもどうかと思うが、やっぱり止められない。母親と子供。自分と彼は友達で対等だからそれは間違いだけれど、彼の優しさは時々母親に重なることがあったから今の自分の情けない姿と並べればそんな風にも映るかも知れない。おかしな事だけれど、悪いことではないと思ってしまった。辿々しく話し終えて見上げたルルーシュが目を見開いた後、微笑んだから猶更そう思った。

「ルルーシュ…。」
「突拍子もないことを言うのは今に始まった事じゃないが、今回のは相当だな。」

呆れたような台詞にも全く心は傷つかない。ただ何処までも慈しむように言われて、スザクは喜びからまた一粒涙を流しただけ。これがほんの少し前であれば嫌悪の表情も露わに吐き捨てられたことだろう。それは思い出すだけで身も凍るような光景。だが今は違う。いつものルルーシュで、彼の言葉には愛情が溢れている。それを今だからこそ、はっきりと言えた。

「酷いなぁ、ルルーシュ。」
「泣くな馬鹿。」
「馬鹿でいいよ、馬鹿で。君が笑ってくれてる。」

例えどれだけ揶揄されてもいいと思ってしまえるほどその笑顔には価値があるのだと言えば君はまた馬鹿か、と言うのだろう。でも本心を撤回するつもりはない。これはスザク気付いた事実で、伝えるべき事なのだと思ってしまった以上撤回なんてすることはできはしない。それこそ誤解さえ恐れずに伝えるべき事だった。あの夢を、二度と現実にしないために。

「君の笑顔を見ると、安心するんだ。」

優しい笑顔は全てに許しを与える聖母のように綺麗で、そんな風に笑える彼が眩しくて愛しかった。

「ねぇルルーシュ、ひとつ気付いたことがあるんだ。君がいないと寂しくて苦しくてどうしようもなかった。僕は僕が思っている以上に君のことが必要なんだ。君がいるからこの場所が心地良くて、僕も笑っていられる。」

君が明るく照らすこの場所で、僕は呼吸をして、笑い、生きていられる。
さながら、君は僕の太陽なんだ。

涙で濡れた瞳を柔らかく綻ばせてスザクはそっと告げた。発するほどに痛みを伴うような甘い真実を、消え入りそうな声を懸命に絞ることで伝えたスザクを、ルルーシュは笑って迎え入れる。幼い時分に戻ったように泣き続けるスザクの目元から流れ出る涙を飽くことなく掬い取る。優しい仕草でルルーシュは泣き疲れた子供を眠りに誘うようにあやす。旋毛から耳元にかけて頭をそっと撫で、何度も何度も髪を梳いてやる。時折目元を手の甲でなぞり、ルルーシュはスザクに触れ続けた。スザクは自分の告白に答えが返ってこないことを気にもせず、彼の触れる感触に身を任せた。言葉がなくとも安心で胸は満たされ、この上ない幸福が降り注ぐ。そして誘われるままにスザクは、もう一度眠りに引き込まれた。水分が枯れて渇いた眼を労るように細めていた瞼。一度安住の地を得た体は素直に休息へと向かっていった。緑の瞳に映る世界がゆっくりと狭くなっていく。

「スザク。」

その頃になって漸くかけられた言葉を、スザクは幸福に満ち足りた笑顔で聞いていた。夢に誘われることへの不安は何より最後まで焼き付いて離れない紫の瞳が和らげてくれる。大丈夫、何も心配することはない。そう言い聞かせて意識を手放そうとしたスザクに、最後ルルーシュは微笑んだ。その柔らかな、けれど痛みを伴う甘い笑顔に、スザクは刹那だけ喉を動かした。

「俺は太陽なんだな。お前にとって、…。」

答えを求めない声に、代わりに名前を呼ぼうと開いた唇。言葉の形だけ描き消え去ったのは、意識とは裏腹に弛緩したスザクの身体。それでも夢の狭間でスザクは名前を呼ぶ。ルルーシュ、るるーしゅ、るる…


「それなら俺は、きっといつかお前を殺してしまうのだろうな。」


真っ暗になった瞼の向こうで、ルルーシュが綺麗に笑ってそう言ったのをスザクは確かに見た。


そしてスザクが出した答えに、彼が与えた回答に、スザクは絶望より哀しみを味わった。




あの時あの瞬間、倒れ込む一歩手前で聞いた言葉に目を閉じてしまった自分をなんて弱いのだろうとスザクはひとり嘆いていた。世界はまだ暗いままで、自分が完全に覚醒していないことを感じながらスザクはもう一方で繰り返し訂正の言葉を思い浮かべていた。告げるだけで満足して答えを聞き忘れた自分に、一方通行のまま終わる恐怖。このままではいけない、とスザクは明るくなった光の方へと手を伸ばして、そして覚醒へと急いた。それはデジャヴでは済まされないほど強い再生の感覚だったけれど生憎構いだてする余裕なんてあるはずはなかった。


そして明けを迎えた世界に、やはりルルーシュはいた。


けれどスザクはすぐにその姿を見つけることは出来なかった。眠りに落ちる前と寸分違わぬ紅に染まった生徒会室のソファーの上で、スザクは自分の手を握る気配が無いことに視線を彷徨わせて初めてルルーシュの姿を見つけた。彼は普段執務に使う長いテーブルの一番奥の椅子に腰掛け、一つだけつけられた部屋の光源で本を読んでいた。それが何故かなんて考える暇はその時のスザクにはなかった。ただ先ほどの言葉を訂正しようと滑稽なほど急いていて、大きな差異に疑問を浮かべることもできなかった。我慢できずに彼の名前を呼んで、そしてその声に彼が此方を向くまで。

スザクはこれが『現実』だと信じ切っていた。 

スザクを迎え入れた暖かな『現実』は、ルルーシュが振り向くことでカウントダウンを始める。3。

「スザク。」

2。そこにあるのは親しみが込められた自分の名前。

「お前は俺が太陽だと言ったな。」

1。そこにあるのはスザクが渇望した会話の延長。


「そんな俺に、お前は愛されたいと言う。」


そしてカウントはゼロになった。


スザクは一瞬何を言われて、自分が何を見たのか信じられなかった。心底優しい声でルルーシュが浮かべる心からの嘲りの笑顔に、心は一瞬にして凍り付いた。

自分は確かに彼を太陽だと言った。それはスザクにとって暖かい『現実』での話。
自分は確かに彼に愛されたいと言った。けれどそれはスザクにとって冷たい『夢』の話。

ぐちゃぐちゃになった思考。訳が分からない。けれど一方でその先に続くはずの言葉に耳を塞がねばと警鐘が鳴る。今は何故なんて考える時ではない。夢現も判断している場合じゃない。全ては本能で反射で、拒絶しろと叫ぶ。この先にあるのが例え夢でも現実でも、スザクにとって良いことではない。
確信だった。

ルルーシュが呼吸のために薄く唇を開く様がゆっくりと眼前に広がる。綺麗な赤い唇が言葉を発生するために形作られ、そして珠のように澄んだ声が。そこまで見つめても体は一向に動かなかった。あぁ、いけない!とだけ誰かが叫んだのを聞いたのが最後。


「そんなお前を、お前は愚かだと思わないのか?」


そしてその言葉が最期を告げる。緑の眼球に映る綺麗な人の像。耳に届く綺麗な人の声。肌に触れる綺麗な人の存在。映しているだけで届いているだけで感じているだけで、スザクはそれが自分のものだとは思えなかった。内側に入り込んでくるのに、スザクには届かない。
それが何を意味するのか、考えることさえできはしなかった。


「残念だよスザク。これが最後の気まぐれだったのに。」


だから『ルルーシュ』の言う気まぐれが何を指すのかさえ分からなかったけれど。


「俺とお前の幸せのために。」


記憶に残る限りで一番綺麗な微笑みを浮かべる彼の放つ言葉が。


「俺はお前を嫌い続けることにするよ。」


スザクに与えられた『ルルーシュ』の最後の言葉だということだけは分かった。









end