【気が付けば君を探してる】






「君はこれを恋だとは思わないかい？」

膨大なスケッチに囲まれて絵を描く青年の後ろ姿に向かってロイドは話しかけた。宛がわれた座椅子に腰掛け、冷たい麦茶で喉を潤しながら一心不乱に絵筆をとる青年を見つめる彼の目には一分の狂いもなく、ただ真摯にその状況を映していた。集中し始めた彼が、他人の声に反応するはずはないのを知っていたからロイドは床に散らばったスケッチを手に取りじっと観察するように見つめる。

「絵には魂が宿るなんて高尚なお話はするつもりはないけど、この絵を見ていると僕まで『彼』を愛しく感じる。絵は作者の想いの集合体だ。つまり僕は絵に、君の思いを見ていることになるんだろ？」

少し黄ばんだクロッキー帳の上で、笑い、想いに耽り、眉を寄せて、遠くを見つめている『彼』。水彩で簡単に色が乗せられたスケッチブックから、『彼』が烏の濡れ羽色のような黒髪と、白雪のように輝く肌をしている事がうかがい知れたが、果たして本当に『彼』が彼なのかロイドには判別する事ができなかった。性差を感じさせないほど美しく整ったその造形により、曖昧に浮かび上がった『彼』という像。ロイドは勿論『彼』に実際に会ったことは無かったから、『彼』が本当に実在しているのかさえ知らない。過去何度か聞かされた惚気話をなしにすれば、妄想の産物だと思いたいほど『彼』は美しかった。本当に『彼』が実在するなんて、ロイドは未だに半信半疑だった。

「君は君自身が無意識に込める想いに、はっきりとした愛があると自覚しているかい？」

スザク君、とロイドは鳶色の髪の青年に話しかける。当然のように答えはなかったけれど、ロイドは気にすることなく麦茶に手を伸ばした。ロイドは自分のこの独り言の、何処に彼が反応するのか慎重に伺っていた。無機物に宿る有機体に一等価値を置く彼が、人に興味を惹かれることはほぼ稀であったが気まぐれなロイドの興味に値したこの少年は、それ相応に混沌とした心理の持ち主だった。端から見ていて分かりやすい程の本質を、彼自身が全く自覚していない所にロイドは関心を寄せる。

「ねぇ、スザク君。僕、『彼』のことを好きになってしまったみたいだよ。」

その言葉に一瞬動きを止めて振り返ったスザクは、目を見開いてあからさまに動揺した顔をしていたからロイドは大声で腹を抱えて笑うしかなかった。






散々自分をからかったロイドを部屋から追い出したスザクは先ほどまで自分が向かっていたキャンバスに向かってじっと立ち尽くしていた。その行為は今までの自分の仕事に対する冷静な観察とも言えるし、もしかしたら単純に絵の中の人物を見つめているだけかも知れない。恐らく後者だろうなという確信の元、けれど気恥ずかしくて自覚することも躊躇われる。そしてスザクは先ほどのロイドの言葉を思い出してぎくりと心臓を打たせた。顔が強張り、僅かに染まった頬に自分でも馬鹿じゃないだろうか、と思う。あの人はスザクをからかう事自体が楽しいのだ。

「馬鹿みたいだ。」

ぼそりと呟き、スザクは絵筆を丁寧に水で清める。水気を拭き取って竹製の筆巻きに片し、膠の入った瓶に蓋をして、絵皿に埃が入らないよう箱の中にしまう。手慣れた動作でそれら全てを終えたら、スザクは床に散らばった何十枚というデッサンを丁寧に拾い上げた。それらを手製の画板の中に挟み込んで傍らの作業机の上にのせる。そうして全てを終えると先ほどロイドが座っていた座椅子に腰掛け、もう一度絵を見つめた。

「綺麗だな。」

それは絵の人物に対する評価でまかり間違っても自分の絵に対する評価ではなかった。自分が自信を持てないものを世に送り出すことはできないが、だからといって自分の描いた絵に自己陶酔するほど自分は変人ではないという自覚はあった。自分は描きたいものを、描きたいだけ描く。そこに何らかのメッセージがある場合もあれば、単にそのものの造形に対するスザク自身の純粋な感嘆に基づくものもあった。だが今までの作品を全て振り返るなら、そこに人を描いたものは一枚もなかった。学生時代それなりに名の通っていたスザクに描かれたがる人は多かったけれど、スザクは頑として彼女たちを描こうとはしなかった。人を描くことが嫌いだった訳ではない。ただ描くほどの興味も思い入れもなかったからだ。そうやって昔の自分を振り返りながら、初めてスザクは今の自分を知ることになる。


人を見て筆をとりたいと思ったのは、『彼』が初めてだった。


光の元で美しく輝く黒髪は、光を通しても濃い黒を保っていた。
白雪のようなとしか言えないほどきめ細かな肌は桃色を溶かし込んだ希有な色彩。
微笑む唇は紅一つひいていないのに、甘く惑うように。
極めつけは、そこに命を吹き込むような目の覚める瞳の色だった。

何百と描いたスケッチに、スザクは一度もその瞳の色を描き込んでいない。

今も最後まで残された瞳の色を、スザクは記憶だけを頼りに塗ってゆくだろう。本当は最後まで残しておくことは絵の手順としてはおかしいのだけれどスザクはどうしても色を取ることができなかった。

今もできないのではないかとさえ思えるほど、夢のような美しい紫。

できるならアメジストを砕いて絵の具にしてしまいたいほどスザクはその瞳に取り憑かれている。
『彼』だけを描きたくて『彼』以外の全ての色を排除した絵は、スザクのそんな深い執着に似た想いを一切飾ることなく押し出していた。審美眼の鋭いロイドが言った言葉を何度も反芻するまでもなくそんな事は一目瞭然だった。自分で見ていても、何故こんな絵になったのか分からない。恥ずかしくて恥ずかしくて堪らないけれど、先走った想いは止まるところを知らず素直に形となった。


『彼』に恋をしている。


そんな事誰に言われなくとも、自然と筆を手に取った日に知っていた。
強すぎる想いに戸惑って、吐き出した絵に確信して、そして頭を抱え込む。
頭がおかしくなるほどの恋に、ロイドにさえ『彼』のことをはっきりと告げることはできなかった。



枢木スザク、25歳。

愛した『彼』は同じ町に住む高校生の、男の子だった。









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