【傍にいるだけで満足できたら】
「今なんて言いました?」
滅多なことではロイドの言葉に筆を止めないスザクも、その時ばかりは全ての動作を止めてしまった。振り返ると気持ちの悪い満面の笑みでスザクを見つめるロイドがいて、スザクは先ほどのはやはり幻聴だ、と思いこむことにした。
「だからぁ、特選おめでとう!」
「いやいやいや、特選も何も展覧会に出した覚えがないんですが。」
だがロイドが自分に現実逃避で全てを済ませるほど手易い人物ではない、とは長年の付き合いでよく知っていた。案の定繰り返された特選、という単語と次いで出された有名な展覧会の名前にスザクは倒れるかと思った。それは一度学生時代に入選した展覧会だったが、ここ三年ほど自分の絵を描くのに集中しようと自らの意志でご無沙汰していた。それなのに、何で特選かと言えば答えは簡単だ。ロイドが勝手に出したのだ。
「何してくれてんですか。」
「うわー、その凶悪な笑顔!いいねぇ〜っ、僕が画家なら喜んで絵にしちゃう!」
「趣味悪いですね。大体あんた画商でしょう。画商が本業以外の事に手を出すの止めてください。潰れますよ?というか俺が潰します。」
「若い子を育てるのも画商の大切な役目だよ?」
そんなこと言われるまでもなく分かってるが、話の論点が違うだろうとスザクは自分の額に青筋が走ったのをしかと感じた。まだ学生だった頃から目をかけて、何くれと世話を焼いてくれた恐らく恩人にこんな事を言いたくはないが、破滅してしまえ、と思う。こんな邪念だらけで絵に向かえるはずもなく、絵筆と手を置いてあった手拭いで拭くと、ロイドの横の座椅子に座り込んだ。切り子のグラスに冷たい麦茶に注ぎ一気に飲み干す。一度この人とは腰を据えて話さなければいけないようだ。
「で、出したのはどの絵なんです?」
「なんだ。もう許してくれるの?」
「許す許さない以前にもう特選までいっちゃたらどうしようもないでしょう。で、出したのはどの絵です?最近そんなにたくさん絵渡してませんでしたよね。春の花鳥図?それともこの前イギリスに行った時に描いた風景画ですか?」
「あぁ、あの風景画ね。いつもご贔屓してくださってるマダムが買ってくださったよ。何でも新しく作った別荘に飾るとかで。代金はもう口座に振り込んであるから確認してね。定期的に確認してくれないとこっちもちゃんと領収書あげれないんだから。」
「それはどうもありがとうございました。それより本題をどうぞ。」
段々話がずれていく。仕方なくスザクは我慢強く追いつめるように話を続けた。今までの経験上、この人は自分の言いたいことはどれだけ話をずらしても言う人だから肝心なことが聞けないということはない。だが無駄話に付き合う此方は無意味に神経をすり減らすから、全く持って宜しくない。麦茶で精神統一を計っていたスザクに、不意に爆弾は投下された。
「出したのはねぇ、人物画だよっ!」
そしてスザクは口に含んでいたお茶を吹き出した。麦茶で顔を濡らし、眼鏡から雫をしたたらせたロイドを構う余裕もなくスザクは立ち上がると耳まで真っ赤な顔でロイドを見下ろした。立ち上がったのは受けた衝撃があまりに大きすぎたからでさしたる意味はない。ポケットから取り出したハンカチで眼鏡、次に顔を無表情に拭き続けるロイドに、スザクは隣近所に聞こえるのではないかという大声で怒鳴った。
「ななななっ!なんてことしてくれてるんですかっ!!!!?」
人物画、と言われればどんな絵かはともかく、描いた人物は一人しか浮かばない。というよりスザクはその人以外に、人物画を描くことはない。スザクが想いを込めて描く人物は、この世にただ一人なのだ。
「なんでって、ねぇ。あまりに素晴らしい絵だったからこれは世に出さないと、と思って。」
「世にっ!?あの絵は、というか僕は自分の描いた人物画を誰に見せるつもりもないんです!これまでもこの先も!」
「自己満足はよくないよ。あんなに心を込めて描いているのに。絵は人に見られてこそだよ?」
「そんな世間一般の論理はどうでもいいんです!自己満足!?そんなの僕が一番よく知っているしそれでいいと思ってるんだ!いくらあなたでも勝手すぎます!」
スザクにしては珍しく正論を吐くと、一目散に部屋を飛び出していった。目指したのは普段絵を保管している部屋で、襖を開けるとスザクは一番奥まった場所にある棚に駆け込んだ。スケッチはたくさんあるが、絵自体はそうたくさん描いてはいない。数枚捲って確認し、そしてある一枚が無いことに気付く。
「なんでよりによって…。」
スザクは人物画を描く時、必ずといっていいほどその人の瞳を描かなかった。単に自信がなかったからだけど、その中で唯一自分の全てを賭けて描いた絵がなかった。『彼』が此方を見つめている絵。その先にいるのが自分なのか意識はしていなかったけれど、潤んだ紫の瞳に見つめられてスザクはその絵が完成した時無情の幸せを感じた。けれど部屋に飾る勇気が無くそっと仕舞い込んでいた絵。その絵が、無かった。定期的に絵の確認をしていなかった自分を、スザクはこの時ほど呪ったことはない。
「そんなに血相変えるとは思わなかったねぇ。」
いつの間にか部屋の入り口に佇んでいたロイドが珍しく感慨深く呟いたのが聞こえて、スザクは振り返った。緑の双眸に非難を込めて睨み付ける。けれどロイドは全く動じる様子もなくスザクに近寄ると、先ほどとは反対に見下ろす形を取った。
「どうしてなんですか?」
「どうして、ね。あの絵が君が今まで描いた絵の中で一番素晴らしかった。」
「あなたの評価は嬉しいと思います。けれど俺はあの絵を不特定多数の人に見せる気はなかった。ずっと仕舞い込んでおくつもりだった。」
「自分の気持ちと共にかい?」
また話がずれていく。そう感じならスザクはきっぱりと言い捨てた。
「あなたには関係ありません。」
「かもしれないね。でも君は気付いてるかい?自分の絵のこと。僕はいつだって絵を通して君を見てる。」
だからよく考えることだね。そう言って去っていくロイドの後ろ姿をスザクは何も言わずに見送った。ロイドはロイドで長い間スザクを見てきていた。だからこれは彼なりの忠告なんだろうと思う。不可解なことを多く言うけれど、それに反比例して間違ったことをいうことはなかった。あの人の言葉は正しい。そして事が遅くなる前に必ず忠告を下す。スザクも少なからずその事に気付いていた。ロイドがスザクが無意識に遠ざける事実を、何一つ飾ることなくさらけ出すことを。
「でもだからって、こんなこと…。」
気付きたくなかった。段々新しくなっていく絵を前に、スザクはひとり蹲った。最初は後ろ姿が多かった絵も、振り返るように段々と此方を向いていく。ロイドが展覧会に出した絵を期に、確かにスザクは正面を向く『彼』を描くことが多くなった。今描いている絵もそうだ。ロイドとの話で中断した絵には、花が咲くように艶やかに微笑む『彼』がいた。その目線の先にいるのは、きっと自分だ。だからこそスザクはこの絵を人に売り渡したくは無かった。本当なら人目に触れさせるのでさえ。そしてそれは『彼』の浮かべる笑顔を自分が独占していたいが為の方便だ。けれど、とスザクは思う。絵を売るのは画家としての生活の為であったし、何より職業として存在する当然の行為だった。だからスザクはほぼ例外なく自分が描いた作品は売った。ロイドを通して大抵は顔を知りもしない人へと渡ることに意義はなかった。少し前はその為の絵も描いた。そして売るための絵を描くことを放棄してしまった自分は一体何をしたかったのだろう、と思う。ここ最近ロイドに渡す絵が随分と減っていることにスザクは気付いていたが気にすることはなかった。『彼』を描くことに夢中であったし、描きたいから描くと同時に芸術を追究している気さえしていた。でも違う、とロイドの行動はそう告げている。
『彼』を描くことは、今は心の内に燻り続ける欲求への代償行為だ。
名前さえ知らないのに、話してさえいないのに、触れてさえいないのに。
僕は何故こんなにも彼のことを好きになってしまったのだろう。
スケッチ一杯に埋め尽くされた『彼』。今も存在し続ける絵の中に『彼』。
『彼』が浮かべる笑顔。
『彼』が見つめる自分。
「分かってるんだっ…!全部!!…っ、こんなこと…。」
スザクの中にしかないということぐらい。
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