【掠めた指先・前】






ここ最近の気分を簡潔に言い表すなら最悪だった。今日も目覚めは爽やかとは程遠く、学生時代の名残で続けている朝のジョギング中も一向に気分は晴れ止まない。いつもなら『彼』の家の前を通るコースも最近は変更して避けて、淡々と約十qの道程を走る。最もそうしたところでそのコースの意図を知っているのはスザクだけだから誰の目にも止まることはない。せいぜいいつもスザクに吼えてかかってくる黒い番犬が静かにしているぐらいだろう。そしていつも通り七時には玄関をくぐりシャワーを浴びて汗を流すと着流し姿のまま仕事部屋に寝っ転がった。古い日本家屋を買い取って改装したこの家はリビングダイニング以外は全て畳だったから、そうすることで井草の薫りが心地よく鼻をつく。結局スザクは空腹も忘れ、起きたばかりだというのにその場に小一時間寝っ転がり続けた。

「静かだな。」

大学を卒業後、身を落ち着けたこの町は完全な住宅街だった。それも山裾に、たっぷりと面積を持った家々が長く腰を落ち着けて在るような場所だったからとても静かだ。古い村の名残を残したこの場所は、静かすぎず、かといって騒がしくなく、スザクにとって理想的な環境だった。少し東に行けば大きな町があるので生活に不便もない。そしてこの町で、スザクは『彼』を見つけたのだ。

西の外れにある古い洋館。

一体誰が住んでいるのか、いつからそこにあるのか疑わしいほど古い家だったから近所の子供が幽霊屋敷と言って面白がるのを何回か聞いたことがある。スザクと言えば根っからの芸術家気質というか、人に自慢できない程度には変な思考回路の持ち主だったから、その家を見るたびに建築様式だとか壁に絡む蔦の妙だとかを見て、一体どの角度から描けば一番この家が映えるか、とか観察していたりした。端的に言えばそれぐらいその家は素晴らしく美しい建物に見えたのだ。古い典型的な日本家屋の多いこの町には異質だけれど、花を添えると言えるほどには素晴らしい家。そこがスザクのジョギングコースに加わったのはここに来て本当に直ぐのことだった。そして『彼』を見つけたのは、それから一年と半年以上経ってから。いつもと違う時間帯に通って初めて見つけた、スザクの『花』とも言える存在。

『おはようございます。』

思えば交わした挨拶はその一度きりだった。ただ偶然家の前を通ったスザクに声をかけてくれた『彼』が浮かべた笑顔に、スザクは一度で胸を打たれた。この世にこれ以上美しい人がいるのか、と本気で思った。あまりに呆けすぎて挨拶を返すのを忘れてしまったけれど、『彼』は気にすることなくスザクに背を向けて歩き出してしまった。凛とした佇まいに、音を感じさせない優雅な歩き方。見つめれば見つめるほど引き込まれていく。『彼』が角を曲がって見えなくなるまで、スザクは馬鹿みたいにその場に立ち尽くし続けたのだ。

『彼』に実際に会ったのはたったそれきりだ。たったそれきりで、スザクは恋に落ちたのだ。


それも決して伝えることのできない恋に。






プルルルル…、プルルルル…、

電話、だ。瞼を開けると電話の音が家中に鳴り響いていた。むくりと上体を起こすと日の角度が変わっていてあのまま眠りに落ちてしまったのだ、と分かった。心なしかお腹もすいている。起きあがるとリビングに向かい、この家に置いては滅多にならない電話の受話器を手に取った。

「はい。」

寝ぼけた声で返事をすれば返ってきたのはあまり聞きたくない人の声だった。それだけでスザクが不機嫌になったのが分かっただろうが、相手は時に気にすることもなく用件を伝える。スザクは気の抜けた返事を繰り返しながら相手の言葉を聞いていた。予想していたとおりあまりにつまらなくて、ほとんど右から左に抜けていく。そうやって空いた頭から湧き出てくるのは『彼』のことだった。しつこいぐらいに繰り返される『彼』がいる光景が、スザクに末期だと告げる。寝ても覚めても『彼』のことばかり。恋とはなるほど、手の施しようのない病気だ。もしスザクがほんの少しでも彼に触れられるなら、きっと症状は軽くなっただろう。けれど決して触れることはできない。触れようとも思わないから治りようがない。酷くなるばかりの現状に溜め息を漏らせば、真剣に聞いていないと感じた相手がスザクを諫めてきた。面倒くさくて仕方なかったからまた適当に返事をして、そして電話を切った。

がちゃり。

受話器の音が通信の終わりを告げると、スザクは壁づたいにへたり込んだ。スザク以外誰もいないこの家では、全ての音が必要以上に大きく感じる。望んで手に入れた静寂だったけれど今はそれが寂しさ以外の何ものも生み出さない。今ここに、自分以外の人がいて欲しいなんて嘘だろう、と思った。

「また例の電話かい?」

この家に無遠慮にずかずかと踏み込んでくる他人はロイドぐらいだった。出身地とも大学とも遠く離れたこの地に、知り合いはそう滅多にくるものではない。ロイドのその人付き合いの仕方に掬われたことも何度か会ったが、今はあまりいて欲しい気分ではなかった。案の定勝手に上がってきたロイドに気のない返事をする。

「そうですよ。」
「君も色々大変だねー。めんどくさい家なんて、出ちゃうに限るよ?」
「出て行ったって放っておいてくれるとは限りませんよ。」
「そりゃそうだ。特に名家と名の付くところはしつこいよねぇ。同情するよ。で、また結婚話かい?」

ロイドも名家と呼ばれる家の出身だけに、この手の話はつきない。一昔前はひっきりなしに見合い話が来ていたというが今はどうやら腰を落ち着けかけているらしい。興味がないから聞いたことはないし、そもそも男二人でこの手の話題に花を咲かせるなんてぞっとしない。

「結婚話というより、婚約話ですよ。それも確定の。」
「またなんで断ってしまわなかったんだい?」

君の性格なら引き留められたって勝手に出て行くだろう、というロイドに苦笑するしかない。

「母が死んで直ぐだったから、そんな事言い出せる雰囲気じゃなかったんだ。」

あぁそう、という返事をするロイドはどれほどスザクの心情を酌み取っているかはしれない。だが兎にも角にもそれがこの二進も三進もいかない状況を生み出していることだけは理解しているらしく、彼にしては不機嫌そうに肩をすくめた。結局ロイドがスザクに踏み込んで以来、スザクは筆をとってはいない。目をかけているのはスザクだけではないだろうに、それでもそれ以来ロイドが足蹴く通ってくるのは単にスザクの才能を燻らせておきたくないからだろうと思う。彼をひっぱりだすのに苦労するのは、何も今が始めてではない。

「それよりもさ、君に会わせたい人がいるんだけど。」

だから不毛な話題はとっとと終わらせて動かせる方から動かすに限る、とロイドは言う。ロイドの思ってもいない申し出に不審な顔を隠そうともしないスザクに、笑って立つように促すとさっさと玄関に誘導した。ちょっとそこで待ってて、なんて言って玄関を出ていたロイドの背中をスザクは何も言えずに呆然と見つめる。意外に仕事には律儀なロイドがアポイントもなしに来客をつれてくるなんてらしくなかったから、一体誰だろうとほんの少し悩むことになった。が、結局結論を出す前にがらりと扉を開けてロイドが入ってくる。その顔には普段よく見慣れていて尚かつあまり見たくない、つまりは心底面白い発見をした時の笑顔が浮かんでいたからスザクは思わず頬を引きつらせて後退った。

「君の愛しの君だよ!」

そしてそんな言葉と共にロイドの後ろから現れた人物に、スザクは顔の全ての表情筋を強張らせることになった。挨拶して、なんて言うロイドの声も勿論聞こえる訳がない。目の前に現れた人と、自分に向けられた言葉、その存在を五感全てで感じようと、余計なものは全て排除された。スザクの目の前に現れたのは、


「始めまして、ルルーシュ・ランペルージです。」


夢にまで見た『彼』だった。









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