【たったそれだけのこと、なのに・前】
スザクが通っていた大学には特別集中講義というものがあった。テスト期間が終わってすぐの三日間、学科のOBに来てもらい直接指導を受けて貰うというものだ。意外に伝統のある講義で、意図するところは恐らく教師という生徒達の倍以上は生きているであろう人達より、ほんの少し年上の人達の生き方をみることで近視感を育て、近い将来の進路に役立てて貰おう、というものだ。基本的に作業をする生徒達の質問に駆り出されたり此方からアドバイスしてやったり、することはそんなに多くない上に自分も作業に取りかかって良いという。その上アルバイト料も貰えるからこれは結構破格の仕事だ。特別講義二日目。スザクは後ろから生徒達の作業を見つめつつ、自分も書きかけの絵に筆を滑らせていた。色紙大程の小さな絵は、ルルーシュの妹ナナリーが部屋に飾りたいと言っていた花の絵だ。
「調子はどうだい?」
後ろからかけられた声に振り向くとこの講義にスザクを推薦してくれた先生が立っていた。相変わらず吊り上がった瞳は鋭く切れそうで、武道家と言った方がしっくりきそうだ。けれど口元に浮かべられている微笑みが、ごく親しい人に向けられる柔らかいものでつられてスザクも微笑み返す。藤堂鏡志朗。日本画担当の美術学科教授だった。ちなみに見た目より意外と若い。
「いいですよ。凄く。」
「君は無精だからね。用がなければ年に三回しか連絡を貰えないから、最近どうしていることか心配していたよ。コンクールにも出ないから何を描いているのやら、と思ったら。変わったね、絵の雰囲気が。」
「…・そうですか?」
年に三回とは年賀状、暑中見舞い、寒中見舞いの三回である。これでもスザクにとっては苦心の結果だ。そしてそんな年に三回しか連絡を取っていない相手に一目見ただけで絵の変化を見抜かれては堪らなかった。さすが先生、とか言う前に、何だか自分の中で気まずいものが降り積もっているので素直に返すに至らない。思わず笑顔が引きつりそうになる。そんな内心を収める為にスザクはコーヒーに口を付けた。だがスザクの変化をここぞと見抜いて藤堂は先手を打ってきた。
「やっぱり、恋人が出来ると色々変わるものなんだね。」
ぶはっ、とコーヒーを吹き出したスザクに生徒達の視線が一斉に集まる。スザクは彼らに手を振って笑顔で誤魔化し終えると、藤堂を恨みがましい視線で睨め付けた。この人、こんなこという人だっただろうか…。
「できてません…。」
「おや?違うのかい。君が描いた絵の女の子。」
藤堂はどうやらあの絵の人物を女性と勘違いしているらしい。確かに性別が分からないように描いたのはスザクだがこうはっきり言われると真実を言うのも何となく躊躇われる。性別を曖昧に描いた、という点において確かにスザクは自分の嗜好に対して若干の思うところもあったのだ。
「違います。できてません。」
正確には絶賛片思い中です、と言おうとしたが止めた。声に出すと空しいだけだ。あれ以来ルルーシュとは頻繁に交流を持つことができたが未だにスザク一人が暴走状態なのは良く分かる。彼は自分を、もの凄く嬉しいことに画家として尊敬してくれている。その想いを壊すのが怖いし、またそれ以上が欲しいと言って憚らない自分が胸の内にいることにより、スザクはひとり悶々と悩み続ける日々を送っていた。ルルーシュが欲しい。その思いは日に日に積もる。だが積もるだけで、今はどうしていいか分からない。分からない。けれどそれでもどうにかして
「では片思い中か?」
どうにか…、と藤堂そっちのけで葛藤していたスザクはその一言に机にのめり込んだ。
「・・・…あのぅ、お願いですからそっち方面から離れてくれませんか?」
「違ったかい?あれだけ人物画を描きたがらなかった君が描くぐらいだからよっぽど好きなんだろうと思ったのだが…。いや、これは年寄りのお節介だったね。しかし私も個人的に見せて貰ったが素晴らしかったよ。あまりに現実離れした絵だったから空想画か?と思ったんだけど、その場に丁度居合わせたロイド君に聞いたところによるとちゃんとモデルがいるというじゃないか。君も隅に置けないね。あんな美人を捕まえるとは、いやはや本当に驚いたよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
年寄りのお節介というならどうかその口を閉じて頂きたい、とスザクは最早面を上げる気にもならず唸った。心なしか生徒達の視線をちくちくと感じる。その耳は藤堂のちょっと大きな世間話に向かっているようだ。そんな生徒達を責める気にはならない。全面的に藤堂の過失だ。
「で、例の人物画はちゃんと持ってきてくれたかい?」
だが全く自重する気配のない藤堂から攻撃第五破が来た。学生時代から思っていたが、つくづくこの人は空気が読めないというか我が道をいくというか、まぁそんな感じの人だ。共通の知り合いのロイドに言わせるとどっちもどっち、らしくスザクは何となく今そう言われた理由を悟った。顔の下には書きかけのベビーローズの絵があったが、それに取りかかる気力を根こそぎ奪われたスザクは渋々返事をした。
「持ってきましたよ…。一枚だけですけど。」
「昨日の講義の時に広げてくれると期待していたんだが。スザク君、あの後逃げただろう?」
「逃げましたよ。さすがに不特定多数の前で広げるには恥ずかしすぎる。」
昨日の講義では自分の制作活動と作品をスライドで見せつつ、色々語るというスザクにしてはちょっと苦しい講義だったが、そこでも自分は結局人物画は見せなかった。なにせあの絵を見た人みんなに勘ぐられるのだ。逃げたくもなる。自分の煩悩に従って率直に描いた絵というのは本当に口程に物を言った。そういう自覚がある上で年上で恩師の藤堂に見せるという羞恥プレイを何故実行しなければいけないのか、スザク自身もよく分からない。
「芸術は人の目に触れて初めて生きる。自分の表現を怖がってはいけないよ。」
的を得てるんだが得てないんだが微妙な言葉が飛んできてスザクは苦笑してしまった。きっとこういう純粋に人を励ますことのできる人だからこそスザクも最終的にこの人の前では全てさらけ出してしまうのだろう。その他の人と言ったら大概スザクを応援しつつ自分が楽しんでいる。スザクは画板を取り出すと、その中から藤堂のお目当てのものを取り出した。自分の手で人に見せるのはこれが初めてだったからそれなりに緊張しながら机の上に広げる。
「ほほお‥。」
背後から感嘆の息が聞こえたけれど、スザクは振り向けなかった。自分の描いた絵に、なんとなく目が釘付けになってしまう。選んで持ってきたのは小さな絵で、それこそそっけないほど簡素な絵だった。瞼を伏せるようにしたルルーシュが控えめに微笑んでいる絵。服装も何の装飾もない白いシャツで、背景には何も描かれていない。ただ淡いクリーム色の色彩にルルーシュがいるだけの絵だった。でもそれはあの日、庭先でスザクが見惚れたルルーシュの微笑みで。
(あぁ、綺麗だ…。)
思わずといった風に零れた微笑み。その優しい瞳に、その柔らかな微笑にスザクはどれほど心を打たれただろう。妹の前以外ではどちらかといえば計算された完璧な笑みを見せるルルーシュが見せた、それは本当に珍しい表情だった。言葉もない程に心を射抜かれて、手が止まってしまった時にルルーシュが振り向いて慌てたことを覚えている。結局瞼に焼き付いて離れなかったその笑顔を、スザクは夜になって一心不乱に描いた。自分でも、あんなに夢中になったのは初めてだった。
「やっぱり、恋は人を変えるね。」
藤堂の言葉に、その通りだとスザクも思った。この絵を見て、きっとスザクが変わっていないと言える人なんていないんだろう、と絵に触れる。その変化はあまりに心地よくて、自分はもっとずっとのめり込んでいくのだろうと思う。
自分を変えた人、これからも変えていく人。
かつて無い程優しい絵の中にいる、たった一人の人、ルルーシュ。
(この微笑みだけは、俺のものだ。)
描き出したこの世界だけは、永遠にスザクのものだった。その事実に満足げに微笑む。
そしていつの間にか生徒達が自分の周りに群がっている事に気付かない程、スザクは彼に見惚れ続けた。
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