【答えを失くした間柄・4】
バス停に降り立つと眩いばかりの夕日が瞼の裏をさした。ほとんど山間に沈んだ太陽はそれでも力強く街を照らす。もうすぐ、夏の短い夜の始まりだ。未だ真っ赤な西の空を右手で遮りながらルルーシュは自分の帰路を見つめる。
カレンと話を終えて自分の中で何かが変わったのかと問われても具体的に答えられるものなどない。それでも辿るべき家路よりスザクの家の方へ伸びた路地が気になるのは自分の中で何かが生まれようとしている証なのかもしれなかった。いつまで経っても動かない両足に気休めにそんな事を言い聞かせるぐらい煮詰まっていたルルーシュは、けれど夕日が沈んだのを確認してゆっくりと歩き出した。家路とは違う道へと。住宅街を通る道の街灯は、藍色に染まり行く空に無機質な音を立てて白い光を灯した。
携帯で妹に連絡をとることだけは、忘れなかった。
「お疲れさまあ〜!」
ロイドの相変わらず脳天気な声にスザクはひらひらと手を振って答えた。空港からここまで無一文で送ってくれたロイドには悪いが、最早返事をする気力もない。長い海外旅行、旅行と呼ぶには全く楽しくなかったそれのせいで心身共に疲れていたスザクは茶色いトランクを座席から地面へ引き摺り降ろして、力無くドアを閉めた。その瞬間走り出した車を義理でもって見送ると、漸く懐かしい我が家の玄関を見つめることができた。何も変わってはいないけれど、今は何も変わっていないことが嬉しくて仕方ない。
「ただいま。」
返事がないと分かっていてそう一声掛けると、スザクはごそごそと肩掛け鞄から鍵を探した。この二週間以上、全く触れることの無かったそれは定位置にしっかりと収まっていてスザクは安堵の溜め息を吐く。鍵穴に差し込み、くるりと廻せばがちゃりという懐かしくもぎこちない音が鳴る。がらがらと引き戸を引くと、家の中に街灯の明かりが長い影を作った。ほこりっぽい空気の中、スザクはもう一度ただいまと声を掛けると荷物を廊下に投げ出し、そのまま玄関口に倒れ込んだ。これ以上は、もう一歩だって動く気力がなかった。玄関も開けっ放し。万が一人に見られれば通報されるかも知れないけれど、もうどうだって良かった。
懐かしい街、懐かしい家、懐かしい居場所。
帰って来れただけで涙が出そうだった。そして自分がどれほどこの場所を恋しく思っていたのか知る。実家を飛び出して、いつか自分の場所と定めていたのだと。その理由が何にあるかと思い返せばスザクは疲れのあまりか涙腺が緩んでしまった。ぽろぽろと溢れるものを玄関に敷いてあった絨毯で拭う。
突然呼び出された怒りよりも、この街を思う郷愁よりも、降り積もった疲れよりも、ただルルーシュに会えないことが寂しかった。
寂しくて寂しくて、一週間だと思っていた別れが二週間になって三週間になって、これが終われば会えると分かっていても心が潰れそうだった。触れることも、声を聞くことさえ出来ないなんて地獄のようだった。電話口から聞こえる声に何の感慨も浮かんでいないことが怖くて、国際電話のダイヤルさえ押せなかった自分が滑稽だった。こんなに苦しいなら意地にならなければ良かったと思う。自分と彼が対等なのは立場だけだと思い知ることが恐かったなんて、そんな当たり前なこと。
自分が寂しい程に彼も寂しければいい。
自分が喜ぶ程に、彼も再会を喜んでくれればいい。
全部全部、自分の我が儘だ。いっそのこと思い知ればいい。会いたいと叫ぶ胸に、今すぐルルーシュの家に走り出しそうになる足を理性で押しとどめながらスザクは上体を起こした。
会いに行くなら電話をしてから。平日の夕方、もしかしたら迷惑になるかも知れない。ちょっと顔を見るだけと言ってもあの兄妹は自分を家に招き入れてくれることだろう。暖かな夕食で歓迎してくれるだろう。お土産もいっぱいあるから、口実は充分ある。けれどやっぱり突然訪問するのが許される程、彼らとの距離は近くない。頼んで来て貰うことも呼ばれて行くこともよく良くあったけれど、望んで行きたいと口に出したことは無かった。それが自分が彼との間に引いた、最後の境界線だった。充分すぎる程いっぱい貰っているから、これ以上は此方から何も望むまいと思った。
『…でも、それでも今は会いたい。』
今度こそゆっくりと動き出した足をスザクは止めることは出来なかった。お土産の入った手提げの鞄だけ掴んで、目的を持ってしっかりとした足取りで歩き出す。肩にのし掛かった疲れなんて今はどうでもよかった。そして玄関を飛び出して、すっかり暗くなった空の元へと出た時スザクは大好きな人の声を聞いた。
「…スザクさん。」
ぽつりと落ちた声に、一瞬幻聴かと思った。あまりにタイミングが良すぎたから自分の願望なのではと。けれど体は正直に声の元を探し出そうとする。そして見つけた人は、街灯の下で学生服のまま、何故か呆然と立ち尽くしていた。自分も同じくらい呆然としていたから、二人の間は自然と沈黙で溢れかえる。沈黙を破ることができたのは、突然の邂逅に全身が硬直していたスザクの方だった。もっとも声の方も固く、滑らかにとはいかなかったけれど。
「ただいま。ルルーシュ。」
「…おかえりなさい。」
迎えの挨拶が帰ってきたことにスザクは感極まって頬が緩むのを抑えられなかった。走り出して飛びつきそうな自分を必死で押さえ込んで、まだその場に立ち尽くしているルルーシュへと近付く。手が伸ばせば届く距離にあって、スザクはやっとルルーシュの瞳の色を見つけることが出来た。夜の闇に僅かに陰り、深く深く吸い込まれそうな暗い紫の瞳。三週間ぶりだと言うのに相変わらず輝く紫の瞳に感動して、抱きしめれば折れそうな程細い体を見つめた。
「今、帰ってきたところですか?」
「うん。今帰ってきた。」
「疲れてますね。」
「そうでもないよ。君の顔を見たら、疲れも吹っ飛んだ。」
「声が弱々しいですよ。」
「ははっ、うん。久しぶり過ぎて緊張してるだけ。」
「俺相手に、緊張なんてしないでくださいよ。」
それは無理だよ、と答えるとルルーシュは漸く笑った。何処か緊張した面持ちだった彼が笑ったことによって、スザクもすっと全身が軽くなる。
「ところで何でここに?」
「今日は偶々様子を見に来たんですけど…、タイミング良かったですね。」
もしや毎日僕の様子を見に来てくれていたのだろうか、と密かに期待しながら尋ねると、偶々という応えが返ってきた。その冷静な答えにスザクは嬉々としていた自分を反省した。いくらなんでも浮かれすぎている。と同時に恋する者はいつの時代も自分の都合の良いように現実をねじ曲げるのだと納得した。それで幾分落ち着きを取り戻したスザクは鞄の中を探る。渡そうと思っていたお土産が入っていたことを思い出したのだ。ごそごそと雑然とした鞄の中を探るが、指が上手く動かず中々見つからない。ルルーシュに見られて焦っているのだという事をスザクは思い知った。赤い布の貼ってある固い木箱を見つけ出すと、スザクは笑顔で面を上げた。
「旅行のお土産だよ。」
「そんな、わざわざ…。」
「君に似合うと思って、買ってきたんだ。」
変に遠慮しようとするルルーシュを丸め込むように、スザクは自らその箱を開けた。そして中から時計を一本取り出す。繊細な文字が描かれた丸い文字盤に、飾りのように紫の宝石が一つ付いた革製のベルト。少し古びた雰囲気を漂わせているそれをスザクはじっくり見せるようにルルーシュの目の前に掲げた。
「それ…女ものじゃないですか?」
「どうだろう?」
「どうだろうじゃありません。女物です。」
「きっとルルーシュに似合うよ。」
にこにこと微笑んでルルーシュの言い分を流すと、強引に左腕を掴んだ。白くて細い手首は綺麗で、無骨な男物よりも女物の方がきっとずっと似合う。ルルーシュが静止するのも聞かずにすかさず手首に時計を巻き付ける。スザクはクリーム色の文字盤がルルーシュの手首を飾る様を満足げに眺めた。
「貴方という人は、相変わらず強引で人の話を全然聞いていませんね…。」
「そ、そうかな?」
「そうです。反省して下さい。」
嬉しそうなスザクをルルーシュは溜め息混じりに見遣る。こうと決めたら一直線だから、自分が何を言っても聞くものではないと分かってはいても時々窘めてやりたくなった。
「すごく似合うよ。ルルーシュ。」
うっとりと言い放ったスザクはまだルルーシュの腕を掴んでいた。夏服のせいで剥き出しの腕は、初めて触ったけれど肌理細かくそれはそれは滑らかだった。吸い付くような肌は赤ちゃんのように瑞々しくて、一体どんな手入れを施せばこうなるのだろうとスザクは真剣に思案した。
否、思案することで気を紛らわせていた。掌から伝わる肌の感触や体温に、この肌に舌を這わせ赤い痕を刻みつけてみたくなる衝動を感じながら、必死でそれらを押さえ込んでいた。今ここでそれをしてしまえば今まで積み上げてきたものが全て崩れ去るだろう事は想像に難くない。だからこそスザクは瞼に彼の肌を焼き付け、掌の感触を忘れまいとすることに全力を注いだ。
「スザクさん。」
ルルーシュのその一言の前までは。
「ありがとう、ございます///」
何故か分からないけれど頬を赤らめて、彼の赤く熟れた唇がお礼の言葉を告げる。腕からそれた視線が絡め取ったその唇の色は、正しく目の毒だった。すなわち、スザクの理性を容易く吹き飛ばす効果を持つそれ。
「どういたしまして。」
微笑んで返事を述べると共に、スザクはルルーシュに口付けた。
何も考えてはいなかった。目の前にあったから、口付けずにいられなかったスザクは確かにこの時自分が思っている以上に疲れていたのだろう。煌々とした夜の灯りの元、二人の影が重なる。
その唇は思った以上に柔らかくて、微かに甘い味がした。
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